ベン (ニコラス・ケイジ) は世界を股にかけるトレジャー・ハンター。幼い頃祖父から聞かされたフリー・メイソンの秘宝を発掘することを悲願としている。そういう彼に出資しているのがハウ (ショーン・ビーン) だが、南極で難破した船を探索中、ベンをなき者にしようとしたハウの画策により、ベンとジャスティン (ライリー・プール) は危ういところで一命を取り止める。アメリカの独立宣言時の誓書を狙っているハウに先んじるため、ベンは協会のアビゲイル (ダイアン・クルーガー) と接触を図るが、当然アビゲイルはベンの言うことに耳を貸さない‥‥
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「ザ・ロック」以来定番となった感のある、ディズニー提供、ジェリー・ブラッカイマー製作、ニコラス・ケイジ主演の家族向けアクション・アドヴェンチャー大作の新作。見る前からほとんど作品の印象は予想できるのだが、それでも見てしまうのがこういう定番映画の醍醐味でもあり楽しさでもあるから、ここは御託は並べず、黙ってただ一時楽しむためだけに劇場に足を運ぶ。
それにたとえ最終的に見た後の印象がその他の同系の映画とほとんど同じになってしまおうとも、やはり何人もの製作者が頭を捻ってあれこれいろんな新機軸を打ちだそうと躍起になっているわけだから、少なくとも見ている間は楽しいのは事実である。たとえ周りに座っているのがガキや家族連れやカップルばかりであろうとも、たまにはこういう映画を見てスカッとしたい。
ではあるのだが、17歳以下のガキは成人の同伴が必要のR指定だった「ロック」、「コン・エアー」、13歳以下には不適切な表現があるとするPG-13の「60セカンズ」と続き、今回は子供には不適切な表現があるとするが、基本的にはガキだろうが誰だろうが誰でも見れるPG指定で、どんどんケイジ出演作がガキ向けになっていくのはなぜだ。別にPG指定だから作品が必ずしも幼稚だというわけではないが、しかし、それでもなあ。最近見たPG作品って、あれか、「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」や「スカイ・キャプテン」があるか。やっぱ、あまり大人向けとは言えないよなあ。
つまり「ナショナル・トレジャー」では、作品中に多少なりともHなシーンはまったく出てこない。せいぜいがキス・シーンだけなのだ。また、多少ともヴァイオレンスが絡むと途端にレイティングが厳しくなるアメリカ映画界において、この映画は、アクション映画とはいえ、人と人とが徹底的に殴り合ったり、大袈裟に血を流したりするアクション・シーンはないことを既に明確に示している。派手なカー・チェイスもなく、もしかしたら何も爆発すらしないかもしれない。いくらブラッカイマー-ケイジ作品とはいえ、これでは本当に大人が見て楽しむことができるのか、一抹の不安がよぎる。
とはいえケイジは不思議な俳優で、こんなに子供/家族向け映画で重宝されておきながら、わりと大人向けの作品にもしっかり出ている。こういうガキ向け作品に出る一方でかなり切れた危ない一面も合わせ持っており、その系統の極北がデイヴィッド・リンチの「ワイルド・アット・ハート」だろう。一方の「いい人」的印象が最も強く前面に出ているのが、「あなたに降る夢 (It Could Happen to You)」と言えるかもしれない。その点で、芸幅はかなり広い。
フランシス・フォード・コッポラの血縁という血筋のよさもあり、元々アイドル的売り出され方をして出てきたのだが、その方面ではそれほどぱっとしなかった。結局、危なさと優しさが同居しているケイジの持っている魅力と可能性に最も早くに目をつけ、開花させたのは、コーエン兄弟の「赤ちゃん泥棒 (Raising Arizona)」まで待たなければならない。「赤ちゃん泥棒」では、はっきり言うとケイジが演じているのは犯罪者なのだが、それをケイジというキャラクターが演じると、まるで悪いことをしているようには見えないという、奇跡的に完璧なキャスティングとなっていた。子供のためなら何をするかわからない危ないケイジと、子供のためになんでもしてやるという優しいケイジが同居しており、以降ケイジが演じた役のすべての萌芽がここにある。やはりコーエン兄弟は偉いと言わざるを得ない。
最も子供向け作品に力を入れるディズニーの場合、出演者のバック・グラウンドやスキャンダルに気を使うのは当然である。それなのにたとえ役の上とはいえども犯罪者や危ない人間を多く演じ、私生活でもスキャンダルとは言えないまでもかなりゴシップ欄を騒がせてきたケイジが、ディズニー作品で多用されているという事実は、考えてみるとほとんどあり得ないことのように見える。ケイジ以外では、ほとんどこのような経歴を持つ俳優がディズニーで重宝されている例はない。本当に稀な俳優だ。
ケイジ以外では、いつでもこんな役ばっかしのショーン・ビーン、「トロイ」で、絶世の美女ヘレンという役どころでありながら大した出番のなかったダイアン・クルーガーらが出ている。が、それよりも私の印象に残ったのはハーヴィ・カイテルで、これまで何度も繰り返している同様のミス・キャストにしか見えない役柄なのに、それでも彼が出てくるとさもありなんと納得してしまうのはなぜだ? 彼が刑事として出てきた役で、これまで失敗しなかった作品を探す方が難しいと思い、今回もやはり浮いていると思うのに、それでも彼が出てくると心なし安心してしまう。彼も昔は切れた役ばかりだったのに。
しかしこの手のガキ向け作品って、見てる時はそれなりに楽しんでエキサイトして、まあ一応満足って感じで劇場を後にしたはずなのに、2、3日経って印象を書こうとすると、もうほとんど何も憶えていないことに自分でも呆れるばかり。歳とって記憶力が減退したせいばかりとも思えない。そのくせ冒頭のクリストファー・プラマーなんて、もういいお爺ちゃんを地で演じられる歳になったかとか、ラストの方でさり気なく刑事に指輪を見せるカイテルの指がやけにずんぐりむっくりでどっちかっつうと労働者階級の指だなあとか、どうでもいいことはしっかりと憶えてたりする。
一方こういう、アクションでありながら子供も大人もターゲットにする作品って、実はすごく作り手にとっては難しいだろうというのはよくわかる。ちょっとでも派手にしたり血を流したりしたら即座にPG-13かもしくはR指定になってしまい、PG-13はともかく、ガキの入場には大人の同伴が必要になるR指定だと、興行的にかなりのマイナスを覚悟しておかなくてはならない。一方、PG-13とPGの差は特に大きいとも思えないが、それでもPG指定になってしまう「ナショナル・トレジャー」のアクションが、現代的指標から見れば、かなり抑えたものであることは確かだ。それにしても本質的にそういう家族向け勧善懲悪物語で、どことはなしにモラル的に崩れているのに主人公として出てきて活躍してしまうケイジって、やはり不思議な役者である。
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National Treasure ナショナル・トレジャー (2004年11月)


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ある朝、ジョエル (ジム・キャリー) は会社を休んで赴いたロング・アイランドの東端モントークの波打ち際で、クレメンタイン (ケイト・ウィンスレット) という女の子と知り合う。しかし、ある日クレメンタインの働く職場に出向いたジョエルは、クレメンタインから初めてジョエルを見るかのような冷たい反応を示されて、ショックを受ける。実はクレメンタインは今の生活を変えたくて、過去のことを忘れるトリートメントを受けていたのだ。自棄になったジョエルは自分もクレメンタインを忘れるために、同様のトリートメントを受ける決心をするが‥‥
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自分を忘れるトリートメントを受けた恋人に対する腹いせ? に、自分も恋人のことを忘れようと決心する男にジム・キャリーが扮するコメディ? 脚本は現在、ハリウッドで最も注目を集めている「アダプテーション」のチャーリー・カウフマン。「アダプテーション」ではカウフマンは自分自身をモデルにし、しかもその自分自身を双子として造型、さらにはニコラス・ケイジがカウフマンを演じる作品に自分自身も顔を出すという摩訶不思議な状況を設定していた。それ以外でも「マルコヴィッチの穴」や「ヒューマンネイチュア」等、とにかく一癖も二癖もある脚本には定評がある。
それを映像化するのは、「ヒューマンネイチュア」の、と言うよりは、ビョークのミュージック・ヴィデオの監督として知られているミシェル・ゴンドリーで、こちらも様々なギミックを多用した癖のある映像作りでは定評がある。
この二人がタッグを組んだおかげで、当然のことながらでき上がった作品は、やはり摩訶不思議な印象を残す、SFだかコメディだか恋愛ドラマだか、なんとも定義づけの難しい作品になった。第一、いったいいつの間に、記憶の一部だけを抹消するという機械が発明されたのか。これはSFじゃないんだろう? しかも実地にそれを患者に使用している医者がおり、しかも見ていると、その利用はどう見てももぐり、あるいはその筋から許可をとっているとは思えない。
クレメンタインがいきなりジョエルと赤の他人の素振りを見せ始めると、納得いかないジョエルに、匿名の手紙が届いて (その手紙は実はその医者の元から送られている)、ことの次第を仄めかすのだ。半信半疑でそのクリニックに乗り込んだジョエルは、自分もクレメンタインと同じトリートメントを受ける決心をする。しかしその使用には、クリニックの従業員が夜中にこっそり人目を忍んで患者の元に行き、寝ている時にセットしなければならないという、どうにも胡散臭い話なのだ。当然それが何事もなく進むわけはなく、どんどんジョエル相手のトリートメントは思いもがけない事態に陥っていく。
このSF的設定を、ビョークのSF的ミュージック・ヴィデオで知られるゴンドリーが、楽しそうに演出している。そこかしこに出てくる、遠近法や時制を無視したり、スプリット・スクリーンを多用したギミックは、ともすればやり過ぎと見えないこともなく、わりとストーリーを理解するのに頭の痛い混乱を持ち込んでもいる。
特に印象深いのが、時間を遡ったりするために、今そこにいる人間が実はいないはずの人間であり、そのためその人物の顔はのっぺらぼうになってしまっている事態だとか、ジョエルとクレメンタインが二人手に手をとってグランド・セントラル・ステーションを走っている時に、周りの人間が消えていくというシチュエイションで、昨週「ドーン・オブ・ザ・デッド」を見たばかりの私は、非常にホラーくさい印象を受けた。結構怖いと言ってしまってもいいのではないか。実際、知らないうちに記憶をなくしているという設定は、ホラーSFとしてなかなか使える。
マーク・ラファロ、キュースティン・ダンスト、イーライジャ・ウッド、ジェイン・アダムス、トム・ウィルキンソン等の曲者が脇を固めているのだが、そのほとんどがわりとSF作品に縁が深いのも、こういう設定とは無関係には見えない。「ロード・オブ・ザ・リングス」でホビットの主人公を演じたイーライジャ・ウッドが、まさか普通の人間を演じられるとも思えないし、「スパイダーマン」の彼女のキュースティン・ダンストも然り。一見してはSF作品とは無関係に見えるウィルキンソンも、実はHBOのTV映画「ノーマル (Normal)」で、なんと自分は本当は女性だと言い出して性転換手術を受け、女性になってしまうという常軌を逸した役を演じている。この分だとラファロがSF作品に出るのも、そう遠い未来の話ではないだろう。
もちろん主人公の二人、ジョエルを演じるキャリーとクレメンタインを演じるウィンスレットもSFとは無縁ではない。キャリーは昨年、「ブルース・オールマイティ」でほとんど神様になっちまったし、ウィンスレットはそもそものデビュー作が、誰あろう「ロード・オブ・ザ・リングス」のピーター・ジャクソンが演出した「乙女の祈り」で、パラレル・ワールドに逃避する年頃の少女を演じていた。
とはいえそういう人々がそういう設定を演じても、それが観客に受け入れられるかはまた別の話で、この作品、これまでのカウフマン作品同様 (ゴンドリー作品ではなくカウフマン作品として紹介される場合が多いのだ)、そのオリジナリティを高く評価する声は多いが、作品そのものを評価するかどうかとなると、話はまた違ってくる。特にそのSF的な設定を堂々と話の軸にしているマンガチックなところが、見る人を選んでいるようだ。
しかしいったんその設定を受け入れると、「エターナル・サンシャイン」は、恋愛ものとしては実に胸キュンの作品としてでき上がっている。記憶を消され、元に戻り、やり直し、くり返し、失敗して、またやり直すというような、メビウスの輪みたいな堂々めぐりのループになっているところで、結局主人公の二人は、映画が終わった後もまた同じ時点に戻って同じことを繰り返すんじゃないかという、心は苦しいけれども、それでも人生の最も重要な瞬間を生きている時間が何度でも繰り返される予感と緊張と興奮と苦悩と挫折と眩暈に満ちている。
ところでこの映画、キャリーが乗る列車がマンハッタンとロング・アイランドを結ぶLIRRであるところを見ると、私から見るとご当地映画なんだが、映画の中ではモントークというロング・アイランドの東端にある場所を除けば、その他は特定されていない。もちろんキャリーたちの住む場所の地名はあるのだが、そんな場所聞いたこともない。一方、マンハッタンがスクリーンに映るのは、誰でもわかるグランド・セントラル・ステーションだけで、しかもせっかくマンハッタンでロケしているのに、駅の外に出て、絵になるマンハッタンの街頭を映すことはないという、非常にもったいない撮影の仕方をしている。その上結局、ジョエルがなんの仕事をしているかも最後までわからないままだ。要するに作り手の意識では、あるいは主人公の二人には、外の世界は存在しないも同じであるわけなんだろう。それにしてはクレメンタインの職場は出てきたわけだが。ジョエルは冒頭でいきなり仕事休んじゃうし、その後はクレメンタインと一緒にいるのに忙しい。いったい何をして生計を立てていたんだろう。
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Eternal Sunshine of the Spotless Mind
エターナル・サンシャイン・オブ・ザ・スポットレス・マインド (2004年3月)

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Big Fish ビッグ・フィッシュ (2004年1月)
父の様態が思わしくないという知らせを受けたウィル (ビリー・クラダップ) は、妻のジョセフィン (マリオン・コティラード) を連れて、何年ぶりかに父エド (アルバート・フィニー) と母サンドラ (ジェシカ・ラング) の住む故郷に帰ってくる。ウィルは、何かにつけて同じほら話を何度も何度も吹きまくる父にどうしても馴染めなかったのだ。しかし、父の部屋を整理していたウィルは、父の話が事実であったことを証明する証拠を発見する‥‥
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ティム・バートンの新作は、父と息子の誤解と和解を描くファンタジー。 死期が間近に迫った父エドと見舞いに来た息子のウィルを描く現在と、そのエドの昔のほら話を交互に紡いでいく。現在のエドを演じるのがフィニー、エドの若い頃を演じるのがユワン・マグレガー、現在のウィルを演じるのがクラダップ。母サンドラの若い頃をアリソン・ローマン、現在をジェシカ・ラングが演じている。
この時期になると、オスカーを睨んだ、ベスト・セラーを映画化した文芸大作が続々公開される。ベスト・セラーとまでは言わなくても、それなりに知られた作品の映像化がこの時期に公開される場合が多い。「コールド・マウンテン」、「白いカラス」、「マスター・アンド・コマンダー」、「砂と霧の家」、「真珠の耳飾りの少女」、みんなそうだ。
「ビッグ・フィッシュ」も原作があるのだが、実は、私はこれに原作があるなんて全然知らなかった。たぶん、ほとんどの者はそうだろうと思う。ダニエル・ウォレスの原作は、ほら話を詰め込んだ、本人曰く、出版されただけでもめっけものの作品だったらしい。しかしそれにバートンが目をつけ、映画化されたせいで、今や徐々にベスト・セラー入りしつつある。
死期の迫った父を見とるために、音沙汰のなかった一人息子が久方振りに故郷に帰ってくるという設定は、こないだ見た「みなさん、さようなら」とまったく同じだ。とはいえ同じなのはその大元の設定だけで、一方は皮肉の利いたダーク・コメディ、一方は心暖まるファンタジーと、題材のさばき方はまったく異なる。
また、長らく心の離れていた父と息子がまた心を通わすという設定で思い出すのは、ベイスボール・ファンタジーの「フィールド・オブ・ドリームス」だ。それにしてもアメリカ映画では父と息子が心を通わせるためには、わざわざファンタジーの世界を作らないと無理なのか、現実世界ではアメリカでは父と息子の関係はもう修復が利かないくらいこじれているのか、とふと思ってしまう。皮肉って金ですべてを解決しようとするカナダの「みなさん、さようなら」の方が、大人の世界を描いているような気がする。
それにしても父と息子の関係というものは、オイディプスの神話の世界からドラマになるようだ。母と娘の関係というとすぐに思い出すのは「愛と追憶の日々」だが、どちらかというと「ピアニスト」とか、「ジプシー」(いきなり古すぎたか) とか、ちょっと癖のある作品が多く思えるのは気のせいか。「ホワイト・オランダー」は見てないが、「ミッシング」だって、母と娘の関係を描いた作品と言えないことはなかった。そういえば「パニック・ルーム」だって母娘ものか。しかし、お伽噺に出てくる母親は、だいたいが継母で娘を虐めてばかりいる印象があるし、やはり母と娘を描くと、どうも特有のどろどろした部分が強調されてしまうような気がする。その点で、父と息子の関係を描く方が、しっかりと枠組みのできた物語にしやすいのではなかろうか。
フィニーは息子からほら吹きだと思われて疎んじられる父親役を演じているのだが、すごく似合っている。HBOのTV映画「ギャザリング・ストーム (The Gathering Storm)」でチャーチルを演じた時も、自分の財政状態なんか気にせず好き放題に暮らすが、しかし根は寂しがり屋の人間という役柄がすごくはまっていたが、バートンはこれを見てキャスティングしたなと思ってしまった。また、彼の若い頃を演じるマグレガーも、なぜだかこういう地に足のつかない役が無理なく収まるという不思議な独自のキャラクターを構築しつつある。最近の役を見ても、「ムーラン・ルージュ」とか「スター・ウォーズ」とか、はたまた前近代的でありながら超モダンなラヴ・ロマンス「恋は邪魔者 (Down with Love)」とか、なんか現実感が希薄な役ばっかりだ。
あと、ラングとローマンが同一人物の若い頃と歳とってからを演じているのだが、素直に同一人物と信じられる。「マッチスティック・メン」では13歳の少女を演じた恐るべし童顔のローマンだが、メイク次第ではちゃんと20代にも見える。しかし、こういう同一人物の若い頃と歳とってからを二人の役者が演じる場合、知られた俳優やスターを使う必要がない、脇の役にこそキャスティングの妙が発揮される。ここではエドの少年時代の友人、歳とってからの恋のライヴァルになる男 (名前忘れた) の少年時代と青年時代が、違う役者が演じているのにも関わらず、同じ人間が成長してああなったに違いないとしか思えない自然さが見事。完璧なキャスティングだったと鼻高々のキャスティング・ディレクターの顔が見えるようだ。その点で、幼い頃と成長してからで最も無理があったのは、ヘレナ・ボナム・カーターが演じたジェニーだろう。もっとも、ジェニーは最初、成長して久し振りにエドに会った時に、エドが気づかなかったということになっているため、似すぎている子役を使うわけにもいかなかったというのはあるが。
「ビッグ・フィッシュ」は父と息子の物語なのだが、一方で、エドとサンドラ、ウィルとジョセフィンの愛の物語ともなっている。よく見ると、結局いつまで経っても子供のようにしか見えないエドと、その父親の子供っぽさが嫌でほとんど縁を切ったも同然の一本気のウィルは、やはり親子であり、その二人を暖かく見守るサンドラとジョセフィンの方が、どう見ても大人だ。井の中のかわずでは終わりたくなかったというエドだが、たぶんサンドラがいなければ、エドは何もできなかった。愛する人を得て、好きなように人生を生きて、やっぱりエドは幸せだよ、と思うのであった。
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イランから妻ナディ (ショーレー・アグダスルー) とティーンエイジャーの息子エスマイルと共にアメリカに移住してきたマッスード・ベラーニ (ベン・キングズリー) は、市によって押収された一軒家を競売によって格安で手に入れる。しかしその物件は、IRS (税務署) の手違いによって押収対象となったものであり、にもかかわらず、それまでそこに住んでいたキャシー (ジェニファー・コネリー) は強制的に立ち退きを余儀なくされる。IRSの間違いが明らかにされるが、既に引っ越してきていたマッスードは、自分が支払った額ではなく、その何倍もの市場価格を払わない限りそこを動かないと宣言する。一方、キャシーに好感を持つシェリフのレスター (ロン・エルダード) は、キャシーに協力を約束する‥‥
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「イン・ザ・ベッドルーム」も書いたアンドレ・デビュースの同名原作の映像化。考えたら「イン・ザ・ベッドルーム」も、普通の生活を営んでいる普通の一家が、ある事件を契機に、これまでは予想もしなかった世界に足を踏み入れるという話だったが、ここでも同様に、傍目からはごくごく一般的な中流階級にしか見えない二つの世帯 (一方は女性の一人暮らしであり、一方も一家の長が仕事をかけ持ちして稼いでいるが、現在のアメリカの一般的世帯とは多かれ少なかれそんなもんだろう) が、雪山を雪崩となって転がり落ちるように取り返しのつかない事態に陥って行く様を描く。この作家、そういう市井の人々の生活が段々破綻していくという局面を書かせると抜群にうまい。
演出はこれが初監督作となるヴァディム・ペレルマンで、因みに「イン・ザ・ベッドルーム」を演出したトッド・フィールドも、初監督作であった。要するに、設定がごく一般的な世界であるため、製作にそれほど金がかからないで済むというのもあろう。デビュースの書く世界というのは、元々ハリウッド大作というよりも、インディ映画向きの題材なのだ。
作品は冒頭、IRSからの督促を無視したキャシーが、立ち退きを食らうところから始まる。元々間違いで、払う必要のない税金ということで無視していたら、お役者仕事がめぐりめぐって強制退去というところまで事態がこじれてしまっていたのだ。慌てたキャシーが弁護士を雇い、家を取り返そうとしたところ、既に家は競売によって市場価格の3分の1程度の値段で買い手が付き、次の人が引っ越してきていた。
それがベン・キングズリー扮するマッスード・ベラーニ一家で、元々はイランの軍人としてかなりの要職についていたマッスードは、この競売が間違いによって起こったことを理解しながらも、自分がこの家を手に入れたのは正当な手段によるとして、もし家を買い戻したいのなら、マッスードが買った価格ではなく、その3倍もの市場価格でないと家は手放さないと、家を売り渡すのを拒む。
一方、キャシーに同情する警官のレスターは、同情以上の感情をキャシーに対して持つようになり、妻子を捨ててまでキャシーの力になろうとする。レスターの行動は徐々に法の執行者としての立場を逸脱し始め、ベラーニ一家に対し、ほとんど脅迫とも言える行為をとり始める。マッスードは警察に対して苦情を申し立てるが、もちろんそれは事態をもっと悪くするだけにしかならなかった‥‥
とまあ、3組の世帯が蜘蛛の糸に巻かれるように、事態は悪い方に、悪い方にと転がっていくのだが、基本的にここには本当の悪人は存在しない。少しずつ皆欠点は持っているのだが、だからといってそのくらいの欠点のせいでここまで事態が悪くなったりするのはあんまりだ。キャシーはお役所からの手紙を無視したかもしれないし、マッスードは少し欲張りすぎたかもしれないし、レスターも少し権限を逸脱してしまったかもしれない。しかし、誰もそれがここまで事態を悪くするとは露ほども思ってなかったのだ。
それにしても、段々事態がこじれていく中盤からクライマックスまではまるで怒濤のような勢いで、息もつかせない。そしてよりにもよってああいう結末を迎えるとはいったい誰が予想できたか。せめて誰か一人でも明るい未来を見せてくれたならと思うが、こういう、ハリウッド的でない結末を見せてくれるところがインディ映画のインディ映画たるところでもあり、ここでヘンに中途半端にハッピーエンドっぽく結末つけちゃうよりは、いっそこの方が潔いのかもしれない。
キングズリーは相も変わらず芸達者なところを見せる。最近でも「アンネ・フランク」でのヒューマンな父親役、「セクシー・ビースト」での冷血人間、そしてここでの自己を厳しく律する元軍人役と、すべてで説得力たっぷりに演じることのできるのは、もう、さすがとしか言い様がない。一方のコネリーも、「ビューティフル・マインド」でのアカデミー賞受賞はフロックではなかったところを見せる。そしてキングズリーの妻を演じるアグダスルーが、こういう、世間に疎そうな女性って、いなさそうでいながらいるんだよなという感じをうまく出しており、それぞれ好演。
監督のペレルマンはロシアのキエフ生まれで、幼い時に父が他界したせいで、辛酸を舐めたらしい。イタリアに一時住んだ後、カナダに移住したということだが、一時はストリートで生活をしたこともあるとニューヨーク・タイムズのインタヴュウで答えていた。それからTVコマーシャルで身を立てるまでになったらしいが、異国の地で自分一人の手で道を拓き、一軒の家に異常すぎるほどこだわる「砂と霧の家」のマッスードの姿は、他人のようには見えなかったようで、原作を読み終えるや否やエージェントやデビュースに電話をかけまくって、その熱意でデビュース本人から映画化の承諾を得たという。
しかし、「ミスティック・リバー」といい、「砂と霧の家」といい、最近の評価が高い作品に、いかにもアンハッピーエンドの作品が挙げられるのは、時代というものか。これだってハッピーエンドだったとは到底言い難い「21グラム」が、心安まる映画だったように思えてしまう。「ミスティック・リバー」を見た後、うちの女房は思い出したくないと言っていたが、「砂と霧の家」も見ていたら、きっとたぶん同じことを言ったに違いない、一人で見に来てよかったと思ったのであった。しかし、重いエンディングだからといってこの作品を見逃すのは、人生の大きな損失という気もするが。
追記:
上で「イン・ザ・ベッドルーム」のアンドレ・デビュースと書いたが、「砂と霧の家」のデビュースは、アンドレの息子であるそうだ。道理で今回に限って、紹介される時にいつもアンドレ・デビュース3世と書かれていると思った。前は3世なんて書かれているのは全然見なかったんだけどなあ、本人から正しく綴るよう注文でもあったのかなと思っていた。まったく、欧米での名前で時々思うのだが、別に大した家系でもないのに父親の名前をそのまま息子につけないでもらいたい。さもなければ、アンドレ・デビュースを紹介する時に、アンドレ・デビュース2世 (息子が3世であるなら当然そうだろう)、あるいはアンドレ・デビュースJr.としてもらいたかった。だったらこんぐらがることもなかったのに。しかも二人して似たような印象の作品を書くからなあ。でも、親子だから当然か。
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House of Sand and Fog 砂と霧の家 (2004年1月)

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劇作家のジェイムズ・バリー (ジョニー・デップ) は、最近、書く作品の評判が思わしくない上、妻のメアリ (ラーダ・ミッチェル) との仲も思わしくなかった。そんな時バリーは、4人の息子たちを女手一つで育てているシルヴィア・ルウェリン (ケイト・ウィンスレット) と出会う。純真な子供たちはバリーにまた新たな創作意欲を湧かせ、ルウェリン家に入り浸るが、それは一方で社会の好奇の目を引き起こし、メアリとの仲をこじらせることにしかならなかった‥‥
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「ネバーランド」は、「ピーター・パン」の作者として知られるジェイムズ・バリーを描く、かなり事実色の濃い、いわばドキュドラマである。事実と、それにある程度の脚色を加え、ちょっとスランプ気味だったバリーが、どのような経緯で、今日では児童文学の傑作の一つと目される「ピーター・パン」をものにしたかを描く。
そのバリーに扮するのはジョニー・デップで、こないだの「シークレット・ウィンドウ」に引き続き、また作家を演じている。デップは「ナインス・ゲート」でも作家を演じるなど、かなりこの職業を演じる機会が多い。元々デップはどちらかと言うとそれほどアクが強くなく、監督の思うような色に染まりやすい体質の俳優だが、いつも心ここにあらずといった感じで何考えているかよくわからないというデップの印象が、作家という職業と結びつきやすいのだろう。
あるいは、さもなければ今度は「パイレーツ・オブ・カリビアン」での思い込みの激しい独りよがりの海賊という役で喝采を浴びてしまう。いつも放心しているような役か、さもなければ思い込みの激しい役のどちらか両極端の役が得意というのがデップの不思議な才能であるわけだが、ま、考えればこれは同じコインの裏表のようなものであるのかもしれない。いずれにしても、今回、海賊を演じる作家という役のオファーがデップに行ったのはいかにも当然だ。はっきり言って、この役をいったいデップ以外の誰にキャスティングすればいいのか見当もつかない。デップって、どう見ても我々と同じ世界に住んでいるとは思えないところがあるからなあ。
実はこの映画、私はそれほど惹かれていなかった。ピーター・パン、ふーん、お子様も見れる感動ものですか、くらいにしか思っていなかった。それでも見に行ったのは、私よりも女房がこの作品に乗り気で、いつだったか予告編を見た時から絶対見ると宣言していたからだ。そのため、別に誰が演出しているかもまるで気にしていなかった。そしたらなんと、マーク・フォースターの名前がスクリーンに出た時は、本当に驚いてしまった。これが「チョコレート (Monster's Ball)」を撮ったのと同じ人間が撮ったとは到底思えない。この人生に対する温度差はいったいなんだ。特に「チョコレート」の前作「エヴリシング・プット・トゥゲザー」の、ほとんど人生諦めたとでもいうような冷たい印象から較べると、それこそ雲泥の差がある。確かに「チョコレート」ではひしひしとした土着の生命力のようなものが感じられたが、この転向はすごい。宗教変えましたかと訊きたくなる。
とまあ、「ネバーランド」はかなり人生前向きな印象を受ける感動ドラマなのだが、実は私はこの中で描かれているバリーという人物に対して、ほとんど好感を持てなかった。この男、一応「サー」という称号を得ているれっきとした貴族であり、かなり裕福な暮らしをしている。一方、この時代の英国貴族というもののしきたりやマナーはかなり厳しいものであり、実際は家の中でどんな暮らしをしていて、妻との関係がどんなものであろうとも、体面は繕わなければならない。
つまり、バリーがシルヴィアと4人の男の子たちとの関係に傾倒するのは、いても気づまりなだけの家や妻メアリから離れていたいことの裏返しであり、家にあまり帰りたくないと思っているからだ。結局、家では一人メアリだけが世間体を繕うためだけのために家を切り盛りしていたりする。それでも人々の口に戸は立てられず、二人は最終的に破局を迎えるわけなのだが、そこでバリーは、私は努力したんだよ、といいわけがましく口にするのだが、そんなの、いいわけにすらなってないとしか私には思えなかった。あんたはまったく努力なぞしていない。少なくとも努力していたのはメアリの方だけであって、あんたはいつもただ逃げていただけだ。それを努力なんて言ってもらいたくない。
要するに「ピーター・パン」は、そういう、現実に立ち向かうことができない人間の書いた究極の現実逃避物語なのだ。実際、そう考えると、いつまでも子供のままで大人にならない「ピーター・パン」という物語がいかにも腑に落ちる。大人になりたくないという子供のことを本気で書くことのできる大人というのは、正直かなり屈折した人間か、成長期になにか問題があったか、あるいは現実に直面できない逃避指向の人間であるかだろう。もちろん、そういう逃避指向をただの逃避で終わらせずに一つの作品として結実させた才能は称賛して然るべきだろうが、しかし、それでも、よく考えると、子供が子供のまま成長しないという、話の根幹の不自然性は残る。つまり、私が「ピーター・パン」という物語に感じるのは、いつまでも変わらない子供のままの純真な心を描いたよくできたファンタジーというよりも、うまく成長できなかった大人のいびつな感性である。
実際、今人々がネバーランドと聞いて真っ先に連想するのは、誰よりもまず、40代になっても大人になりたくないと公言して憚らず、自分の家をネバーランドと呼び、そこに幼い子供たちを呼んでいたずらしたとして訴えられているマイケル・ジャクソンだろう。結局バリーとマイケルの根は同一であり、一方が児童文学の大家として名を残し、もう一方が、児童愛好の倒錯者として知られるようになったのは、それこそ同じコインの裏表に過ぎない。一方が一線を踏み越え、もう一方は踏み止まったという違いはあるかもしれないが、あるいはバリーだってそうじゃなかったという保証はどこにもない。うまく人々に知られずに終わったということだけなのかもしれないのだ。ほとんど隠れ主人公である末っ子のピーターが、現実には成長してから自殺したなんて話を聞くと、たぶん話は美談のままじゃ終わらなかったんだろうとどうしても思ってしまう。
というわけでこの作品、結構できがよいと誉められ、批評家受けがいいのにもかかわらず、私はあまり感心しなかった。私は元々「ピーター・パン」が好きじゃなかったというのもある。例えばSFで、生物が歳をとらない世界とかを設定されると、不満ではあるがまだ納得するが、普通の人間の世界に現れてただ一人だけ歳をとらない少年という奇形の存在は、やっぱり納得しろと言われても無理があるんじゃなかろうか。
あるいは、こないだ私は恩田陸の「光の帝国」を読んだのだが、その中に、歳をとらないという登場人物が出てくる。ところが別にこの作品ではそういうキャラクターが気にならなかった。なぜか。それはその人物が、既に中年以降、ほとんど老齢の人物として造型されていたからだ。あるいは、極端にスロウなスピードではあっても、歳は加算していくような印象が得られたためでもある。ところが「ピーター・パン」のように、まだ大人になってもいないくせに大人になりたくないというでかい口を叩かれると、猛然と反発してしまう。これから大人になって、もっとすばらしい人生や瞬間がいつ訪れるかもしれないのに、それを経験したこともない人間から大人になりたかないなぞという意見を聞くのは、あまりにももったいなさ過ぎて腹が立つ。映画を見た後、隣りで目をうるうるさせている女房を横目で見ながら、私はちょっと顔を背けて、不満、と一人ごちていたのであった。
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Finding Neverland ネバーランド (2004年12月)


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ウィルスに侵され、ゾンビと化す者たちで満たされたラクーン・シティは、アンブレラ社の手により封鎖され、もはやこれ以外に道はないとする判断により、核が撃ち込まれるのも時間の問題となっていた。そういう状況下で、病院に隔離されていたアリス (ミラ・ジョヴォビッチ) が目覚める。シティの外から遠隔操作カメラで内部を確認していたアシュフォード博士は、アリスを見つけ、シティに取り残されている娘のアンジーを助け出してくれれば、シティから脱出する機会を与えようと提案する。アリスと、シティに残ったジル (シエナ・ギロリー) を筆頭とする特殊部隊の精鋭たちは生き残りを賭け、アンジー救出に乗り出す‥‥
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さて、今週は何を見ようかな、今回はハリウッド・アクションにしようかな、久し振りにSFっぽいアクションなんていいなと作品をチェックしてて、はたと困ってしまった。特に強力とも思えない、B級の匂いがぷんぷんとするアクションがなぜだかやたらと多い。「エイリアン vs プレデター」、「アナコンダス」、「エクソシスト: ザ・ビギニング」なんて、どれもこれもリメイクか二番煎じか焼き直しという作品ばかりで、新しいアイディアなんてないんだなあというものばかりだ。当然、批評家からもクソミソに言われている。
エイリアンとプレデターを戦わせるなんてアイディアが、一部では面白そうだと思われるのもわからないではなく、もし他に本当に何も見るのがないのなら見てもいいかなとは思うのだが、だからといって積極的に見ようという気にもならない。普通なら、やはりこういうアイディアを本当に映画にしてしまったことに対して失笑を禁じえないというのが、正常な観客の反応というものだろう。「アナコンダス」は、一昔前にタイトルが複数でなく単数形のほとんど同名の映画があったし、「エクソシスト」も、また今頃続編かという印象を拭いがたい。
実は「バイオハザード: アポカリプス」だって決して誉められてるわけではない。第一、このシリーズだってヴィデオ・ゲームからの派生作品であって、オリジナルのアイディアなんかじゃない。ついでに言うとそのオリジナルのゲームだって、特に斬新なアイディアが詰まっていたというわけでもない。その上今年は既に、ゾンビものでは「ドーン・オブ・ザ・デッド」が封切られているし、つまり、特に「アポカリプス」が必見の映画というわけでもないのだが、実は、私はかなり主演のミラ・ジョヴォヴィッチのファンなのだ。
ジョヴォヴィッチの魅力は、彼女がいつもどうしてもオーヴァーアクティングしてしまうアクション女優だからという点に尽きる。ともすればやり過ぎて見る者を食傷させてしまう嫌いが濃厚なオーヴァーアクティング系の俳優、特に女優は、常に失敗の可能性と隣り合わせだ。この際、はっきり正直に言うと、ジョヴォヴィッチがこれまでに主演してきた作品は、「フィフス・エレメント」、「ジャンヌ・ダルク」、「バイオハザード」と、すべて失敗作と断言してしまって差し支えなかろうと思う。彼女のオーヴァーな演技がどうしても作品を破綻させずにおかないのだ。ましてや主演ばりばりの「ジャンヌ・ダルク」のような作品になるとなおさらだ。
しかし作品全体としてのまとまりという点を無視してジョヴォヴィッチだけを見るならば、上記作品はすべて鑑賞に堪える。というか、積極的に見ていて楽しい。つまり、ジョヴォヴィッチは見飽きない。それにしてもジョヴォヴィッチが演じると、なんで「ジャンヌ・ダルク」がSFのように見えてしまうのだろう。結局、彼女が出演する映画にほとんど現代が舞台の作品がないのは、ジョヴォヴィッチの存在が現代の枠にはまりきれないところから来ている。あと数年してこういう彼女のとんがり具合が多少おとなしくなってきたら、その時こそ現代ドラマにも重宝されそうな気がする。往年のローレン・バコールみたいな感じになるんじゃないかと勝手に思ったりしているのだが。
今回、そのジョヴォヴィッチの対極に、同様に男性顔負けの派手なアクションで活躍するジルというキャラクターがいるのだが、それを演じるのがシエナ・ギロリーだ。と、ここでは言っているが、実は私は、彼女がギロリーだということには、上映が終わってクレジットが流れるまでまったく気づかなかった。これまでギロリーがこなしてきた役と今回では、まったく印象が違う。特に「タイムマシン」の貞節な婚約者、「ヘレン・オブ・トロイ (Hellen of Troy)」での絶世の美女へレンなんてのを演じているのしか知らなかったから、ギロリーだと知った時にはかなり驚いた。
わざわざ髪を黒く染めてアクション全開で、私は最初、レナ・ソファーがまたずいぶん痩せたなと思っていた。あるいは角度によってはジェイミ・ガーツにも似ている。いずれにしても、アクション女優としてのギロリーもなかなか楽しめる。実際、アリスが目覚めるまでは彼女がほとんど一人で活躍しているし、スクリーンに映る時間も大差なく見える。ジョヴォヴィッチ目当てでこの映画を見に行って、ギロリー・ファンになって帰る観客も多いのではないか。既にババくさくなってしまったケイト・ベッキンセイルの後釜に座るやつがもう現れたかという感じだ。
ところで「バイオハザード」は、元々はシューティング・ゲームとはいえ、ホラーの要素が大きかったはずだが、今回はその要素はかなり希薄である。これだけゾンビが大量に現れても、あまり怖くない。ゾンビはシューティング・ゲームの対象としてしか存在しないようだ。実際、映画の中でアリスがアンジーに向かって、こいつらは速く動けないから大丈夫だよ、みたいなことを囁くシーンがあり、私は、違う違う、だからこそこいつらは怖いんだということを描かないとしょうがないじゃないかと思ってしまった。しかもゾンビが怖いのは、死んでいるのに、殺しても殺しても立ち上がって迫ってくるところにあるはずなのに、脳天に銃弾を一発撃ち込めばそれで終わりになってしまうと、本当にただのシューティング・ゲームになってしまい、これではまったく怖くない。その後、従来のゾンビにはない速さと強さを兼ね備えた、最強の親玉格のネメシスの登場に至っては、なにをかいわんやである。おまえはエイリアンか。
もちろん作り手の立場から言えば、ホラーとアクションの融合を目指しただけのことであって、別に怖さという点にはあまり重点を置いていなかったのかもしれない。 実際、作品の中にはかなり笑えるシーンも多く、覚醒したアリスがバイクにまたがってステンド・グラスを突き破ってジルたちの救出に登場するシーンでは、あまりもの演出過多に観客から失笑が漏れたし、もしかしたら逆受けを狙ってすらいたかもしれない。堂々とコメディ・リリーフの役を受け持たされた黒人も登場するなど、「アポカリプス」においては、ホラー色はかなり薄まっている。
「ドーン・オブ・ザ・デッド」では、ただ一匹、ゾンビ化しない犬が登場して、なぜ人間以外の生物はゾンビ化しないのかという問題点を提起していたが、「アポカリプス」では生物はウィルスによってゾンビ化するため、感染すれば犬もゾンビになる。しかしこうなると、ゾンビ猫、ゾンビ鳥、ゾンビネズミらも当然登場させるべきだと思うし、ゾンビゴキブリが発生した場合、人間がどう抵抗しようとも、地球がそいつらに乗っとられることになるのはほとんど確実だと思う。それともDNAが違うため、ゾンビ化するのはホ乳類に限られる、みたいな理由づけもありうるか。しかし、そう言えば、鳥インフルエンザに感染した人間もいるんだった。やっぱりゾンビ化するのは人間だけに留めておいた方がまだ利口かもしれない。 。
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Resident Evil: Apocalypse バイオハザードII: アポカリプス (2004年9月)


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Spider-Man 2 スパイダーマン2 (2004年7月)
日夜悪漢退治に精を出すスパイダーマンことピーター・パーカー (トビー・マグワイア) だったが、仕事/学生/正義の味方の3足のわらじを履きこなすことは難しく、おまけにMJ (カースティン・ダンスト) との恋愛絡みにハリーとの友情まで加わり、寝る暇もない。一方、核融合によって安価なエネルギー調達の研究を続けていたオクタヴィウス博士 (アルフレッド・モリーナ) の実験が失敗に終わり、妻を亡くした博士は、ドック・オックと呼ばれる怪人となってニューヨークの街を恐怖に陥れようとしていた‥‥
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空前のヒットとなった「スパイダーマン」に続く、シリーズ第2弾。前作同様監督サム・レイミ、主演トビー・マグワイア、その他カースティン・ダンスト、ジェイムズ・フランコ、ローズマリー・ハリスらの共演陣も前作から顔触れが変わらず、前回にも増して活躍もするが悩みも増したピーター・パーカー=スパイダーマンを活写する。
実際、今回の「スパイダーマン2」の特徴は、なんといっても人間関係から正義の味方としてまで、悩めるスパイダーマンを描いていることにある。しかもそれが世界平和を守る正義の味方としてよりも、等身大、といえば聞こえがいいが、率直に言って貧乏でみみっちい、素の人間としてのピーターの悩みを描く部分が大きい。
ピーターは昼は学業とバイトに精を出し、その合間を見てはスパイダーマンに早変わり、さらには幼馴染みのMJとの関係や、親友兼親の敵でもあるハリー (フランコ) との友情など、世界は悩みの種が尽きない。しかも善行を施してもそれで誰かが彼に資金を提供してくれるわけでもなく、おかげでいつも寝不足、その上勉強を怠るわけにも行かず、ピザ屋で働いて金を稼がなければならないのに、始終なんやかやと忙しいため遅刻ばかりで、ついにはクビになるばかりか、学校の成績も落ちるばかり。誰もピーターのことなんか構っちゃくれないのだ。
この、貧乏なヒーローという構図は、大金持ちのヒーローであったバットマンとは対極にある。バットマンことブルース・ウェインは、働かなくても悠々自適の生活をしていられる金持ちで、身の回りの世話は執事がこなし、クローゼットを開けるとそこには何十着ものバット・スーツが所狭しと掛けられており、出動はバット・モービルに乗ってと、誰もが心に描く正義の味方を地で行っていた。然るに、そのバットマンの心に影を負わして造型したところに、ティム・バートンの貢献があった。
一方、ピーターの場合、貧乏なために家賃を払うのもままならず、スパイダーマン・スーツは一着しかなく、それも手作り、おまけにその洗濯まで自分でしないといけないが、洗濯機からとりだしてみたら色落ちして、一緒に洗っていたパンツが赤と青に染まっていたりする。バット・モービルの代わりに運転するのはスクーター、それに乗っててはねられそうになり、あわやというところでアクロバティックに難を逃れたピーターを見て感心する子供たちには、野菜を食べろよとアドヴァイスするなど、まったく庶民的なのだ。
そのスパイダーマン、今回はビルの合間を蜘蛛の糸を発してすいすいと移動中、いきなり手首から糸が出なくなり、墜落してしまう。実は、あまりの忙しさに一時的に自分の存在理由を見失ったピーターの悩みのためであったのだが、私は最初、てっきり貧乏で栄養失調なためだとばかり思っていた。
さらに今回、素性は秘密のはずのスパイダーマンが、やたらと色んなところで素顔を見せてしまう。スパイダーマンの素顔を見た一般市民から、このことは誰にも言わないから、なんて言われたりしてしまうのだが、「タイガー・マスク」だって、素顔を晒した時は番組は最終回だったというのに、このあまりもの庶民臭さはなんだ。だいたい、人前だというのに、自分から率先してマスクを脱ぐなよ。
結局、独自のコスチュームを着てマスクを被っていようとも、ヒーローであってもその本質は普通の人間と変わらないというところが、21世紀型ヒーローとしてのスパイダーマンの最大の特色である。これまでのスーパーヒーローは、バットマンのような天上人型、あるいはスーパーマンのように、通常は一般人の生活をしていてもその真の姿は誰も知らないという、素顔は謎というタイプが圧倒的に多かった。スーパーヒーローは、いつの時代でも素性が謎であることでスーパーヒーローたりえていたのだ。もちろん彼らとて悩むことはあるが、それはスーパーヒーローとしての一段階上の孤独であったりして、決して貧乏で苦しんでいるスーパーヒーローなんていやしなかった。
それなのにスーパーヒーローが素顔を晒すことによって、これまでのスーパーヒーローものと最も異なってくるのは、当然ながら、主人公の周りを取り巻く人間関係の変化に他ならない。今回、ピーターが至るところでマスクをとったりとられたりすることで、新たに育まれる感情も損なわれる感情も生まれてくる。それでパート3に引っ張るところなんか、うまいよねえ。うまくこれまでのスーパーヒーローものの逆をついている。わかっちゃいてもパート3も見てしまうのは間違いないよな。
演出のレイミは洒落者で知られ、少なくともアメリカでは、私が知っている限りでただ一人、スーツにネクタイ姿で演出する監督なのだが、今回、「アクセス・ハリウッド」かなんかで「スパイダーマン2」演出中のレイミを訪問しているのを見たら、さらにボルサリーノのような帽子まで被って演出していた。スタジオの中なんだよ。「スパイダーマン2」でやたらと衣装にまつわるエピソードが出てくるのは、どうもレイミの趣味を反映しているようだ。
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ハリー・ポッター (ダニエル・ラドクリフ) と友人のロン (ルパート・グリント)、ハーマイオニー (エマ・ワトソン) らは、新学期を迎えるために魔法学校に帰ってくる。学校へ向かう列車の中で、ハリーらは死神ディメンターに襲われるが、そこを救ってくれたのが、学校に新しく赴任してきたルービン先生 (デイヴィッド・シューリス) だった。一方、脱獄不可能と言われていたアズカバン牢獄から、シリアス・ブラック (ゲイリー・オールドマン) が脱獄に成功する。しかもシリアス・ブラックは、ハリーの親の死と何か関係があり、ハリーを探し回っているというのだった‥‥
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別に今さら多言を弄して説明する必要もない、世界最大のベスト・セラー・シリーズの映像化の最新作。とはいえ、私は前2作は見ていない。原作も読んでない。いくら話題作といえども、わざわざ子供向け作品を見たり読んだりする気になぞまったくならないし、それでも、実は周りの評価が高いのならと内心は思っていたのだが、見た大人のほとんどが、別に金を払って見に行くほどの価値があるわけではないと口を揃えるので、ほとんど興味を失っていた。
それが今回に限って興味を惹かれたのは、これまでのクリス・コロンバスに代わって演出に抜擢された、アルフォンソ・クアロンの存在にあるのは言うまでもない。元々クアロンは「リトル・プリンセス」も撮っているわけだから、子供向け作品も撮れるのは既に証明済みなのだが、しかし、とはいえ、「天国の口、終りの楽園。」を撮ってしまったクアロンがまた子供向け作品に帰ってくるというのか。
なんでも今回の「ハリー・ポッター」は、ハリーを中心とする主人公3人組が、成長して思春期の入り口に立ち、大人になる一歩手前で悩み始めるというのが展開の骨子になっているらしい。なるほど、それならばいかにもクアロンらしい題材と言えなくもない。しかも、今回の「ポッター」は、評もいい。最近の子供向け作品としては、「シュレック2」と並んで、大人の鑑賞にも堪えると断トツに受けがいいのだ。これは確かに見てみたいという気にさせる。
ポスターで見ても、最近、当然のことながらひっきりなしに登場するTVで見ても、主演のハリーに扮するラドクリフは、成長したという感がありありとする。もちろん共演のグリントやワトソンもそうで、特にワトソンは、もちろん以前も可愛かったが、これはあと2、3年経ったらかなりの美人になるだろうなと思わせる。しかも、ちょっと性格の悪い美人になりそうだ。なんというか、派閥を作って気に入らない奴を虐めそうな、気位の高そうな感じがありありとする。
というわけで、本当に久し振りに子供向け作品とやらを見に行ったのだが、実は作品そのものよりも、ただただ、これでもかとばかりに起用される英国俳優陣の総出演に圧倒されて帰ってきた。内容なんて、実はほとんど覚えてない。リチャード・ハリスを一度も見ることができなかったのは残念だが、代わりに魔法学校の校長に扮するマイケル・ガンボンを筆頭に、先生陣にアラン・リックマン、マギー・スミス、エマ・トンプソン、ロビー・コルトレーン、デイヴィッド・シューリス、他の主要な役にゲイリー・オールドマン、ティモシー・スポールと、これだけでもうげっぷが出る。
これだけの俳優陣を惜し気もなく起用できるどころが、金に糸目をつけないハリウッド大作の最大の長所でもあり、短所でもある。短所とは、もちろんそのせいでストーリーなんてどうでもよくなって、主人公に目が行かなくなってしまうところにある。別にあんな小僧ほっとけ、子供はほっといても育つ。それよりももうちょっとシューリスに芝居させろ、もうちょっとガンボンを見させてくれ、トンプソンのオーヴァーアクションもそれなりに楽しめるな、オールドマンはまだ話に絡んでこないのかと、そちらの方ばかりが気になってしょうがない。それにしてもリックマンのこわもてって似合っているなあ。
実際の話、「ハリー・ポッター」はこれからもまだ続いていくわけだし、私のいとこの話だと、たぶん、主人公が成長して様々な要素が絡むこれからこそ、原作は本当に面白くなるだろうと言っていた。アメリカでおそらく最大の書店チェーンのバーンズ&ノーブルでバイヤーとして働き、常に売れ線の本に目を光らせている彼の言うことだから、信用できると思う。私の意見だと、ハリーやハーマイオニーがあと二つ三つ歳をとって、どうやって彼らがヴァージンを失うかなんて話になったら、それこそその映像化においてはクアロンの本領発揮と相成り、文句なしに面白くなると思うが、基本的に子供文学である「ハリー・ポッター」シリーズが、果たしてそういう方向に向かうかどうか。そういう意見を持つだけで原作ファンから非難が集中しそうな気もしないでもない。
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Harry Potter and the Prisoner of Azkaban
ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 (2004年6月)


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気象学者のジャック (デニス・クエイド) を筆頭とする調査隊が南極で気象調査をしていたところ、突如地表に亀裂が入り、一行はすんでのところで難を逃れる。温暖化のために氷が溶け始めていたのだ。学会で対応を呼びかけるジャックだったが、いつ起こるかもしれない気象変化に真面目にとりあおうとするものはいなかった。しかしジャックの予想よりも速い速度で、全地球規模で異常気象が起こりつつあった‥‥
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「インデペンデンス・デイ」や「ゴジラ」等のSFパニック系大作で知られるローランド・エメリッヒの新作。上記2作が地球外生命体や巨大モンスターを描いていたのに較べ、今回は温暖化による異常気象を描くため、形をとる敵が見えないというのが新しい展開だ。
敵がいると、当然のことながらドラマが作りやすい。敵を倒すために主人公が八面六臂の大活躍をするところに焦点を絞ればいいからだ。しかし、異常気象は、それ自体は、主人公に対して敵意を持っているわけではない。だから異常気象に対して勝負を挑むという構図はとりにくい。そのために考えられたのが、その異常気象のためにニューヨークのパブリック・ライブラリに閉じ込められた息子サム (ジェイク・ジレンホール) と、彼を助けに厳寒のニューヨークに赴く父ジャックの行動を描くという、親子ものとしての構成だった。
この、親子もの、端的に言って父と息子の絆を描く感動ものってのは、アメリカ映画には割合多い。この場合、父と息子といっても、既に息子も成長しているというところがポイントだ。つまり、父と息子でありながら、一対一の大人同士の関係でもあるというところがミソだ。最近ではティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」があったし、なんといっても主人公のジャックを演じるクエイド自身が、「オーロラの彼方へ (Frequency)」で、父息子ものを既に演じている。特にアメリカ映画で父息子ものを描きやすいのは、こちらでは、父と息子が抱き合うという機会が多いため、それを絵として活かせるからなんじゃないかと、最近私は思っている。だいたい、必ずその種の映画では、ラストは父と息子がひしと抱き合う、というシーンで終わることが多いからだ。一方、日本映画で父と子が抱き合うなんてシーンは見たことがない。とはいえ、時空を超えた父子ものだった「オーロラの彼方へ」ではそれが不可能だったわけで、一概にそうも言えないか。
パニック大作として見た場合、「デイ・アフター・トゥモロー」のリアリティ、蓋然性については、至るところでぼろくそに言われている。まあ、しょうがないよね。たった数日で北半球の温度が零下に下がってしまうというのは、いくらなんでも常軌を逸している。1秒で温度が10度K下がり、数日で氷河期を迎えるなんて設定は、どう贔屓目に見ても無理がありすぎるし、現実味はすこぶる薄い。しかも世界中の科学者がほとんどそれに気づかなかったなんて、そんな間抜けなわけはあるまい。
とまあ、そういことをいちいちあげつらっていては、もちろんこの種の映画は楽しめないわけで、そういう場合、話のリアリティなぞ気にせず、ディズニーランドの乗り物にでも乗るような気持ちでただただ話に乗せられて楽しむというのが、この種のパニック映画の正しい見方である。実際、で、その辺の理由づけの正誤に目をつむれば、パニック・シーン自体の演出は非常によくできている。
私が最も感心したのは、ニューヨークの天下の五番街を水浸しにして、そこに船を (しかも巨大なタンカーらしきやつ) を浮かべてみたらどうなる、なんて奇想天外な発想を実際に撮ってしまうシーンで、当然CGにしてもよくできていたし、海中に没してしまったバスが舳先の下のところで潰されてしまう、なんて芸細をやられると、これはやっぱりハリウッド映画でなきゃ撮れないよなと、素直に感心してしまう。しかもその船が、ちゃんと後でストーリーに絡んでくるのだ。
因みに、このニューヨーク・シーンでの主要舞台となるパブリック・ライブラリは、五番街と40-42丁目に位置している。で、これはニューヨークに住む日本人はよく知っていることだが、そのパブリック・ライブラリを正面に見て五番街とマディソン街を結ぶ41丁目は、Book Offや日系グローサリーのYagura、日系デリのZaiyaが並ぶ、日本人ご用達のストリートだ。当然私もその辺にはよく足を運ぶ。サムとローラ (エミー・ロサム) がパブリック・ライブラリ前で津波に襲われる時、ビルの間を縫うようにして襲ってくる水はこの41丁目から迫ってくるわけで、私はその瞬間、しまった、Book Offで欲しい本を買っておくんだったという考えが一瞬頭をよぎったことを告白しておこう。どちらかと言うと、パブリック・ライブラリで登場人物が暖をとるために燃やす本より、そちらの方が気になってしまった。
とはいえ一言苦言を申し添えておくと、その時、その41丁目を走っている車の群れは東側からパブリック・ライブラリを目指して走っている。しかし現実には41丁目はライブラリから東に向かう一方通行で、つまり、実際には車はまったく逆の方向に向かって走っていなければならない。要するに、大波に向かって車が走るよりも、後ろから波が追いかけてくる方がよりスリリングになると思った製作者の判断で車の進行方向が勝手に書き換えられてしまったわけだが、残念ながら私はこういう事実に即さない便法は興醒めに思う方である。
それにしてもこの映画、北半球全部が大冷害に襲われているはずなのに、基本的に描かれているのはニューヨークとロサンゼルス、スコットランド、それに、このセットは上出来とは言い難い東京や、その他の一部の都市だけで、いくらポイントを絞る必要があるとはいえ、元々世界に人はせいぜい200人くらいしかいないんじゃないのかと思えてしまう。
ニューヨークに限っても、マンハッタン以外には人が住んでいるようには到底見えず、私と女房が住んでいる川向こうのクイーンズは、どうやら一瞬のうちに海中に没してしまったらしい。その上、直後の氷河期だ。クイーンズにだって何百万もの住民がいるわけだが、どうやらあの分だと生存者は一人もいないだろう。どうやら我々が生き残る確率はほとんどなさそうだなと、私は女房と顔を見合わせてため息をつくしかないのだった。
こういう地球が滅亡するかどうかのパニック映画になると、毎度のことながら当然ニューヨークが登場しないと始まらない。というか、古くは「猿の惑星」から最近では「A. I.」 まで、自由の女神が登場することが、もはやパニック映画の必須条件と断言してしまって差し支えないだろう。もしかしたらキング・コングが登ったエンパイア・ステート・ビルをこれに加えてもいいかもしれないが、それにも増して自由の女神でなければならない理由は、それが誰が見ても自由の女神であることが一目瞭然で納得できるからに他ならない。 その点、どれだけ高さがあろうとも、一瞬でこれがどのビルか100%判別できるわけではないエンパイア・ステート・ビルが、パニック映画で主役の座を自由の女神に譲るのは、致し方ないと言える。文明の象徴としての自由の女神の座は、当分揺るがないだろう。それにしても海中に没したり凍ったり、自由の女神であることも大変だ。しかもそうやって地球が滅亡の危機に瀕しても、自由の女神は自由の女神たる役割から解放されるわけではないのだ。
「デイ・アフター・トゥモロー」はいかにもアメリカアメリカした映画なのだが、一つ、これまでのパニック映画からすると大きく異なっているのが、途中でアメリカ大統領が死んでしまうことにある。死ぬシーンがあるわけではなく、映画の中では大統領は「He didn't make it」とか言われて、ああ、死んでしまったのかとわからせるだけなのだが、これまで、この種の映画で最終指揮官である大統領が死んでしまうことなどほとんどなかった。パニック映画ではないが、「デーヴ」で大統領が死んでしまうという展開があったが、これはその瓜二つの別人を演じるケヴィン・クラインの二役であったため、必ずしも大統領が死んだという感じはしなかった。
それが今回、大統領があまりにも突然死んでしまうわけで、大統領役にほとんど知られていない役者を起用しているのはそのためだろうが、そこには、アメリカ大統領というものに対する近年の世間一般の表面下の意識が反映しているように思えてならない。因みに監督のエメリッヒはドイツ人である由だが、彼はそのわりには、これまでむやみにアメリカを賞揚しすぎていた嫌いがないわけではなかった。その、ハリウッドに迎合してきたという印象が濃厚だったエメリッヒがいきなり変節してしまったわけで、これは、エメリッヒが逆に、もうハリウッドに対してご機嫌を窺う必要がないほどハリウッド内部に根を下ろしたことの現れかとも思ったのだが。
アメリカを賞揚するという描写には、ありふれてはいるが最も効果的な手法として、星条旗をスクリーンに出すという便法がよく用いられる。もちろん「デイ・アフター・トゥモロー」でもこの手法は用いられている。アメリカ大統領は信じられなくなっても、アメリカという国はまだ信じているかのようだ。もちろん、逆もまた真なりで、ある時ない時の国旗掲揚は、そうしてないと、人心の統一は難しいことの現れでもある。多国籍国家であるアメリカでは、常時星条旗を目の前に掲げて意識させることで、全員が同じ国の一員であることを各自に常に再確認させる必要があるのだ。ほとんど日の丸を意識してなくとも、ほぼ全員自分が日本人であることを信じて疑わない日本という国とは大きな違いだ。
この映画を見終わってから劇場の外に出ると、今にも降り出しそうな雨雲が広がっていたのだが、少なくとも竜巻や豪雨や津波や寒波に今にも襲われるという感じではなく、我々夫婦はほっとして停めてあった車に乗り込んで家路についたのであった。
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The Day After Tomorrow デイ・アフター・トゥモロー (2004年6月)


All About My Mother
オール・アバウト・マイ・マザー (2000年1月)
カンヌ映画祭監督賞受賞、ペドロ・アルモドヴァルの最新作は、息子を亡くした元娼婦が辿る悲喜劇を描く。これまでのアルモドヴァル作品に較べ、一般に受け入れやすいメロドラマ・タッチだが、おっとどっこい、登場人物は主人公が元娼婦、一番の友人は男性から性転換したトウのたつ現街娼、元夫も今は女性となっており、知り合いになった女優はレズビアンと、やはり一筋縄では行かない人物が入り乱れる。前夫の知り合いでまともに見えた若い尼さんも、実は現女性である彼の(ええい、まどろっこしいぜまったく)子供を宿している!と、アルモドヴァル・タッチは健在。健常さとは離れた地平にいる彼(女)らの切なくもおかしく悲しい世界を垣間見せる。
評がよかったのは知っていたが、ストーリー・ラインはまったく知らなかったため、実に楽しめた。タイトルからして、今上映中の「Tumbleweed」みたいな母親礼賛感動ものか、アルモドヴァルもついに大衆に迎合しないと映画を作れないようになったかと思っていたら、充分アルモドヴァルした上でしかも大衆を唸らせる作品を作っていた。お見事。これだけアブノーマルな人物ばっかり登場して、しかもしっとりした感動を与えることのできる手腕は並大抵のものではない。前回見た同じヨーロッパ映画の「ロゼッタ」はいくらなんでもすべての人々から受け入れられる作品とは思えないが、こちらの方はもっと広く一般にも受け入れられるだろう。アルモドヴァル会心の出来だったと見た。狙ったものを撮り、狙った反応を得て、満足に違いない。最近業界紙で見るアルモドヴァルの写真て、いつ見てもにやけたエロじじいにしか見えないからなあ。
これでニューヨークに住んでいながらヨーロッパ映画が続いたわけだが、これからの上映予定映画を見てみると、私が見たいと思うアメリカ映画がない。いや、本当ならオリヴァー・ストーンの「エニー・ギヴン・サンデイ」とか、フランク・ダラボンの「グリーンマイル」とか、評もいいし見たかったなと思うものはあるのだが、上映時間の長さで断念した。それに、どんなに評がよくても、「太陽がいっぱい」のリメイク、「タレンテッド・ミスター・リプリー」は見に行かない。予告編を見ると面白そうなんだよ、うん、きっと面白いに違いないと思うのだ。しかし、私は原則としてリメイクは意地でも見ないことにしている。
リメイクをヒットさせてしまうと、ハリウッドが二匹目の泥鰌にむらがって、またぞろあれこれ昔の作品を手を変え品を変えリメイクするに違いない。それだけは勘弁してもらいたいと思う。だいたい、なんで「サイコ」をリメイクしなければならないの?「ダイヤルMを廻せ!」をリメイクしなければならない理由は? 他にもまだいっぱいあったが、とにかく、スターを配しての売らんかなのリメイクはただ単に不愉快になるのだ。
「タレンテッド‥‥」の場合は、オリジナルの「太陽がいっぱい」が実はあまりアメリカでは知られていないという理由はあるだろうが、それでも、だったらオリジナルを再公開しろよと思ってしまう(私はこれを知った時驚いたのだが、アメリカで「太陽がいっぱい」を見たことがあるのはほとんどいないのだそうだ。大学の映画学科を出たのが、知識としてなら知っている、というのがほとんどであるらしい。日本では劇場で見てなくても、30歳以上のものなら「ゴールデン洋画劇場」か何かで少なくとも3回は見ているだろうに。米国映画でない外国映画が不当に虐げられているアメリカの、これが現実である。
多分、今世界で最もヴァラエティに富んだ世界中の映画を見られるのは、日本 (東京) をおいて他にないのではないか。それに、アラン・ドロンがやったトムを今度はマット・デイモンがやるのもなあ。デイモンは若手有望株の筆頭ではあるだろうが、私は「プライベート・ライアン」では彼が一番下手くそだと思った。それに彼にドロンのような怪しい負の魅力なんてないでしょう。あんなアメリカアメリカ丸出しで。「ダイヤルMを廻せ!」にも出ていたグウィネス・パルトロウも、彼女の演技力は認めるが、リメイクにばかり出るの止したら?と言いたくなってしまう。ジュード・ロウとケイト・ブランシェットはすごくよさそうだったけど。
まあ、とにかく、そういう次第で、今、私が長くても見に行こうかと思っているのは、アラン・パーカーの「アンジェラス・アッシュ」とマイク・リーの「トプシー・ターヴィー」くらいである。「アンジェラス・アッシュ」の方は、原作がここでもベストセラーになったこともあり、ハリウッド資本も多少は入っているだろうが、「トプシー・ターヴィー」は、英語作品ではあるが、ハリウッド映画というよりイギリス映画、あるいはヨーロッパ映画である。ふう。早く2時間程度の作品がずらりと劇場にかかるようにならないかなあ。
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Star Wars: Episode IX - The Rise of Skywalker
スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け (2020年1月)
まず、復活したパルパティーンをどうしようかという問題がある。たぶん、作劇術の都合上、ファースト・オーダーの指揮官の地位についてしまったカイロ・レンに、上から目線で命令する立場の者をどうしても置きたかったというのが、作り手の本心に違いない。
ではあるが、しかしそれをやってしまっては、死んでしまった者が都合よく生き返ったり、双子がいたという設定で再登場してくる、なんでもありの安物ソープ・オペラと変わるところがない。やはりそこは手を付けるべきじゃないのではないか。
一方で、そういう垣根やタブーを自ら作ってしまうことこそ、「スター・ウォーズ」にあるまじき行為という考え方もできる。あらゆる可能性があるからこその「スター・ウォーズ」なのだ。
とまあ、こういうことを考えたのは、映画を見て家に帰ってきてからだ。今回、いつもの如くストーリー展開はまったく知らずに映画館に足を運んだので、最初パルパティーンが出てきた時は、一瞬えっと思ったが、そのことを深く考えたり憂慮する間もなく、展開する話に乗せられた。後で考えると、これはたぶん筋金入りのファンは納得しまいと思った。やはり、かなり都合よ過ぎる展開という誹りは免れ得まい。
さらに都合を合わせるためというか、実はファースト・オーダーのハックス将軍 (ドナル・グリーソン) が実はレジスタンスのスパイだったという展開も、あまりいただけない。戦争だからスパイを送り込む手口は誰もが考えはするだろうが、しかしレジスタンスがスパイをファースト・オーダーの上部にまで送り込めていたというのは、ちょっと都合よ過ぎる。ただし、それがファースト・オーダーでも浮いているハックス将軍だったというのは、悪くない。だからこいつはスパイだったのかと思えないではない。最初からハックス将軍はスパイという設定でのあのキャラクターだったとしたら、よく考えられているとすら言える。
レイがパルパティーンの孫娘だったというのは、ルーク・スカイウォーカーがダース・ベイダーの息子であったことを考えると、むしろ当然過ぎるくらい当然の展開だ。こういう展開になることを予想していたわけではないが、そう言われてみると、あっけないくらい腑に落ちる。ただし、これまたファンからは、安易と糾弾されかねない。
要するに、これくらいの世界が注目しているシリーズになると、何をやっても毀誉褒貶渦巻き、全部のファンを納得させることはできない。ハードルの高さを考えると、私なんかはとてもよくやっているなと感心すること頻りだが、ファンはそれぞれが自分だけの構想を持ってたりするから、誰がどんな作品を作っても、たぶん2割くらいのファンはそれに対して言いたいことがあるに違いない。
キャリー・フィッシャー演じるレイア姫の出番が、かなり多いことにも驚かされた。前作の「最後のジェダイ (The Last Jedi)」公開と前後してフィッシャーが亡くなったため、今回フィッシャーが登場することはないと発表されていた。それなのにいざ蓋を開けてみると、かなりのシーンで登場する。CGではなく、前回撮ってあったが使われなかったシーンを利用したということらしい。いずれにしても、帝国軍のパルパティーン、レジスタンスのレイア姫と、両陣営から今回いるはずのない主要キャラクターが現れる。ある意味、すべてが収まるところに収まり、大団円を迎える。掉尾を飾るに相応しい展開とも言える。
一方、「スター・ウォーズ」はこれで終わりではなく、今後、主要キャラクターを主人公に据えた番外編がいくつも製作予定だと発表されている。既にストリーミングのディズニー+では、「ザ・マンダロリアン (The Mandalorian)」がサーヴィスの一番人気の番組になっているし、今年キャシアン・アンドーやオビ-ワン・ケノビをフィーチャーするシリーズ製作も発表になっている。「スター・ウォーズ」サーガはまだ終わらない。
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ウェイファインダーによって未知の惑星エクセゴルに辿り着いたカイロ・レン (アダム・ドライヴァー) は、そこで復活したパルパティーンから、このままほっておいたら強大な敵となるレイ (デイジー・リドリー) を殺すよう命じられる。一方、レイたちもウェイファインダーの存在を知り、惑星パサーナでシスゆかりの短剣を発見するが、ファースト・オーダーに奪われてしまう。レイたちはスター・デストロイヤーに潜入して無事短剣と囚われの身だったチューバッカを奪還するが、カイロ・レンはレイに、彼女はパルパティーンの孫娘であることを告げる‥‥
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優勝戦線に絡んできたのが、前年3日目までトップで最終日に崩れ、惜しくも2回目の全米オープン制覇を逃したペイン・スチュワート、初メイジャー制覇を狙う、実力では誰しも一目置くフィル・ミッケルソン、そしてタイガー・ウッズがそのすぐ後ろで虎視眈々と隙を窺っている‥‥と来れば面白くないわけがない。今年の全米オープンは興奮した。これでデイヴィッド・デュヴォールが最終日崩れないで優勝戦に絡んできてくれれば言うことなかったんだが‥‥これは欲の張り過ぎというものか。
しかもミッケルソンは妻が臨月で、初産間近ということでビーパーを携帯してのラウンド。たとえ優勝戦線に絡んでも妻の陣痛が始まったら病院に駆け付けると宣言していた。それなら以前妻の出産に立ち会うためメイジャーを棄権したニック・プライスのような例があり、改まって言うことのほどでもないが、実はミッケルソンの妻は最終日に実際破水しており、今まさに産まれようとしているのを夫のメイジャー初制覇を目前に、子供を引っ込めてくれと叫んでいたというのだから、バック・グラウンド・ストーリーも完璧。いや、しかし最終ホールのパットをスチュワートが外して、翌日18ホールのプレイ・オフとなっていたらどうなっていたんだろうか‥‥
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第99回全米オープン
1999年6月 ★★★★
ノース・カロライナ州パインハースト・リゾート&カントリー・クラブ
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The Matrix: Resurrections
マトリックス レザレクションズ (2022年1月)
女房が、「メイトリックス」って、日本では「マトリックス」というんだね、と、ふと口にした。日本のTVかなんかで言っていたらしい。言われてみると確かにその通りで、アメリカでは誰でも「メイトリックス」と発音するが、日本語表記・発音は「マトリックス」だ。この自動変換は頭の中で無意識に行われるので、大昔はそれなりに気にかかったかもしれないが、今では意識の表層まで上ってこない。日本語で「マトリックス」と書かれているのを読んでも、頭の中で自動変換されて「メイトリックス」として認識している。これって、もしかしてメイトリックスの世界に住んでいても本人が自覚していないことと同じか?
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